移民政策の先駆者・故坂中英徳さんを偲んで 第三話 坂中論文

移民政策の先駆者・故坂中英徳さんを偲んで

第三話 坂中論文

在日コリアンに関心のある人ならば、かつて「坂中論文」をめぐる議論を耳にしたことがあるのではないか。元東京入管局長の坂中英徳さんが書いた論文である。半世紀も前の論文だが、「多文化共生」が大きな社会課題となっているいま、改めて振り返る価値があるのではないか。

この論文は懸賞論文の応募作である。法務省が1975年に出入国管理行政発足25周年を記念して「今後の出入国管理行政の在り方について」をテーマに職員から論文を募集。1970年入省の若手官僚だった坂中さんの作品が優秀作に選ばれた。筆者の名前を付けた論文として知られるようになったのは、その内容が物議をかもしたからだ。

在日コリアンの世界は、韓国系の在日本大韓民国居留民団(当時=民団)と北朝鮮系の在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)の2つの団体に分かれ、激しく対立していた。しかし、坂中論文への批判では足並みをそろえた。在日コリアン問題に理解のある文化人も同様に批判的だった。坂中論文は四方八方からバッシングされた。

論文の主張を私なりに要約すると、以下のようになる。在日韓国・朝鮮人は①すでに日本人に近い生活実態がある②しかし、法律上は外国人として存在している③その処遇のあり方について政府の方針は定まっていない④このため権利保障が制限され、種々の民族差別を受けている⑤こうした状況を踏まえ、法的地位の安定のほか、日本社会への融和、差別待遇への対応などを多角的、総合的に検討しなければならない——。

在日コリアンの団体などは、坂中論文が主張した「処遇の改善」を同化主義だとして批判した。日本は戦前、戦中に朝鮮半島を植民地支配し、日本語を強要し民族文化を奪うなど同化政策を進めてきた。そうした歴史的な遺恨に加え、日本政府や入管行政への不信があったのだろう。在日コリアンが強く反発したのは、「同化政策を進める坂中論文」を、日本政府の方針だと深読みしたためではなかったか。

日本の文化人からは「社会の偏見を取り除く視点が欠落している」などと批判的な指摘があった。本質をとらえているようには思えないが、こちらの批判にも政府への猜疑心があったようだ。

一方で在日コリアンから「我々のことをこれだけ真剣に考えてくれる官僚がいるとは……」などの声も寄せられた。管理する側の官僚が在日コリアンの処遇について深い理解を示したことへの畏敬の気持ちを持った人もいたのかも知れない。とはいえ、多くの人が坂中論文を「支配者側からのメッセージ」と受け止めた。

ところで、坂中さんはなぜ在日コリアンの境遇について関心を持ったのか。著書の「入管戦記」(講談社)で触れているが、初任地の大阪入管事務所(現大阪入管局)の窓口での14歳になったばかりの在日朝鮮人の少年との出会いが在日コリアンの処遇に思いを寄せるきっかけだった。

在日外国人は14歳になったら入管から外国人登録のための呼び出しがあった。少年が親から「お前は日本人ではない」と告げられたのは前夜のこと。親はぎりぎりまで子供に本当のことを言えなかったのは日本社会に根強い差別があったからだ。坂中さんはそう考えた。「朝鮮人差別を内包する日本社会への強い憤り」が坂中論文の出発点だった。

官僚主義という言葉がある。言い換えれば事なかれ主義だ。やっかいなことには口も手も出さない。1970年代までは国内の外国人といえば、在日韓国・朝鮮人がほとんどだった。しかも祖国の分断を反映して在日の世界も民団、朝鮮総連に分かれている。政治的にもやっかいな問題が背景にある。入管行政の中で「触らぬ神に……」という意識が横行していたとしても不思議ではない。

新聞社にも似たような雰囲気があった。毎日新聞大阪本社の社会部時代のこと。私が在日コリアンに関する取材した際、先輩記者から「深く手を突っ込むとケガをするぞ」と忠告された。在日コリアン問題などに関心を持つ記者は、マイノリティーだった。

当時の時代背景についてもう少し触れておこう。坂中論文が公表される前年の1974年、「日立就職差別事件」の判決が確定した。大手電機メーカー「日立」の子会社が、入社試験をパスした在日コリアンの若者が日本名で受験したことを理由として内定を取り消した。これを差別事件だとして提訴した。この事件をきっかけに、在日コリアンへの差別問題が大きくクローズアップされるが、それまでは就職や結婚差別をはじめ、公営住宅の入居や金融公庫の融資、年金加入など、様々な差別が横行していた。

在日コリアンが集住する大阪市生野区での取材ではこんな思い出もある。息子を医学部に進学させたいという教育熱心な在日コリアンの母親の話だ。母親は「私たちの子どもは一流大学を出ても大手企業に就職できない。医者にでもならないとまっとうな生活ができない」と話した。坂中論文が話題になったのは、そういう時代だった。

「日立」の事件を契機に在日の側の人権意識に大きな変化が見られた。日本人の中にも在日コリアンの立場に理解を深める人が増えた。公営住宅の入居に門戸を開くなど在日コリアンの立場を尊重する地方自治体も出始めた。そして1980年代半ばには、在日コリアンの指紋押捺拒否の運動が野火のように全国に広がった。外国人登録法により義務付けられていた指紋押捺を「犯罪者扱いだ」と強く反発した。彼らの目には指紋押捺が差別の象徴のように映ったに違いない。

指紋押捺問題は日韓の外交問題にもなり、日本政府は1991年の日韓首脳会談で指紋押捺を廃止する方針を示した。入管局の幹部だった坂中さんから指紋押捺に関する個人的な見解を聞いたことはなかった。反対できる立場ではなかったはずだが、心の中には在日コリアンに同情する気持ちがあったのではないか。

1991年に在日コリアンの法的地位を改善する入管特例法が成立した。特例法は、正式には「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国に管理に関する特例法」という。1952年のサンフランシスコ講和条約で日本国籍を剝奪された在日コリアンと在日台湾人が対象となる法律だ。「特例法」によって、特別永住者という在留資格を付与されることになった。これにより、坂中論文で掲げた「在日コリアンの外国人として地位の安定化」は達成された。

坂中さんは移民問題や入管法の解説書だけでなく、「在日韓国・朝鮮人政策論の展開」(日本加除出版)という専門書も出版している。行政官として政策づくりに関与しながら、独自の考えを開陳してきた。

労働力不足が深刻化する中、「特定技能」などの外国人労働者の受け入れが大きな課題となっている。外国人法的地位の安定化や差別の解消など坂中論文の理念が多文化共生社会の中で生かされよう期待したい。

(石原進)=つづく

 

 

にほんごぷらっと編集部にほんごぷらっと編集部

投稿者プロフィール

「にほんごぷらっと」の編集部チームが更新しています。

この著者の最新の記事

関連記事

コメントは利用できません。

イベントカレンダー

7月
20
10:00 AM 【!!追加募集!!】NPO法人日本... @ オンライン (オンライン上での集合研修 および 動画視聴による個人学習) ・「就労者の異文化適応」「教材研究」は対面(東京・大阪)で実施。 オンラインでの参加も選択可能。
【!!追加募集!!】NPO法人日本... @ オンライン (オンライン上での集合研修 および 動画視聴による個人学習) ・「就労者の異文化適応」「教材研究」は対面(東京・大阪)で実施。 オンラインでの参加も選択可能。
7月 20 2025 @ 10:00 AM – 2月 8 2026 @ 2:45 PM
【!!追加募集!!】NPO法人日本語教育研究所 主催文部科学省委託 令和7年度現職日本語教師研修プログラム普及事業 就労者に対する日本語教師【初任】研修 就労者に対する日本語教師養成 –日本語教育研究所の多様な研修実績及び人材を活かしたビジネス日本語教育/指導- ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ この研修は、これから新たに就労者に日本語を教えたいと考えている方を主な対象としています。スキルアップにぜひお役立てください。 再受講をご検討の方へ 本研修はこれまでに弊所の研修をご受講された方も、再度ご参加いただけます。 実際に現場に出て、もう一度確認したいことなども出てきているのではないでしょうか。 さらに実践的な指導力を高める良い機会となりますので、ぜひご検討ください。 ─────────────────── ■期間 2025年7月20日(日) ~ 2026年2月8日(日) *日程等の詳細は、募集要項のリンク先からご覧ください。 ■対象 日本語教育機関認定法に基づく「登録日本語教員」を対象としますが、本法の経過措置期間内(令和10年度まで)は、令和6年度までに下記を修了した方も対象とします。 1)日本語教師として下記のいずれかの要件を満たす方  ①大学/大学院で日本語教育に関する教育課程を修了し、大学/大学院を卒業/修了した方  ②大学/大学院で日本語教育に関する科目の単位を26単位以上修得し、大学/大学院を卒業/修了した方  ③公益財団法人日本国際教育支援協会「日本語教育能力検定試験」に合格した方  ④学士の学位を有し、日本語教師養成講座 420 単位時間以上を修了した方 2)原則として、就労者への日本語教育歴が0~3年未満の方 ■定員 100名 ■受講料 20,000円(税込) ※教材費込み ■申込方法 以下のリンクからお申し込みください。 https://forms.gle/JWtnJ6WzzCNQvQx88 ■申込締切 2025年6月30日(月)【募集期間延長しました!!】 ■募集要項 https://docs.google.com/document/d/1uHn1k6zdRIgcQ2-lK5Uyr1Qa5vlwzXCFvKEUw3UjJVU/edit?usp=sharing ■お問い合わせ NPO法人 日本語教育研究所(研修事務局) nikken.kenshu@gmail.com
8月
7
10:00 AM 令和7年度日本語学校教育研究大会 @ 国立オリンピック記念青少年総合センター
令和7年度日本語学校教育研究大会 @ 国立オリンピック記念青少年総合センター
8月 7 @ 10:00 AM – 8月 8 @ 4:30 PM
日本語学校教育研究大会では、各日本語教育機関における実践・事例の報告の機会として、発表の場を設けています。 意見・アイディア交換の場としてぜひご活用ください。 皆様からのご応募お待ちしております。
8月
26
10:06 AM 第11回日本語教育支援システム研究... @ 英キール大学(Keele University)
第11回日本語教育支援システム研究... @ 英キール大学(Keele University)
8月 26 @ 10:06 AM
第11回日本語教育支援システム研究会(CASTEL/J)国際大会 第11回日本語教育支援システム研究会(Computer Assisted Systems for Teaching and Learning Japanese – CASTEL/J)国際大会を英国中部スタッフォードシャー州にあるキール大学(Keele University)にて英国日本語教育学会(BATJ)・キール大学ランゲージ・センターとの共催で開催することとなりました。 日本語教育支援システム研究会国際大会は、日本語教育関係者、日本語教育のリーダーに日本語教育におけるテクノロジー使用の最先端の動き、将来の方向性を共有する機会を作ってきました。2020年のパンデミックにより授業のオンライン化・ハイブリッド化が進み、それに加えて、この数年の人工知能(AI)技術の急速な発展と普及により、日本語教育は元より私たちを取り巻くテクノロジー環境が大きく変化しています。これらの技術的発展を効果的に教育・学習に取り入れ促進していくことは今まで以上に重要となっています。世界中からこの分野の優れた研究者、実践者が集まるこの国際大会に是非ご参加ください。 日時:2025年8月26日(火)〜27日(水) 会場:英スタッフォードシャー州キール大学チャンセラーズ・ビルディング 共催:英国日本語教育学会(BATJ)、キール大学ランゲージ・センター
8月
29
12:00 AM 令和7年度 文部科学省委託 主任教... @ オンライン+いずれかの対面研修会場(東京会場:国立オリンピック記念青少年総合センター/大阪会場:関西研修センター(KKC)/福岡会場:リファレンス駅東ビル貸会議室)
令和7年度 文部科学省委託 主任教... @ オンライン+いずれかの対面研修会場(東京会場:国立オリンピック記念青少年総合センター/大阪会場:関西研修センター(KKC)/福岡会場:リファレンス駅東ビル貸会議室)
8月 29 2025 @ 12:00 AM – 1月 8 2026 @ 12:00 AM
令和7年度 文部科学省委託 主任教員研修 @ オンライン+いずれかの対面研修会場(東京会場:国立オリンピック記念青少年総合センター/大阪会場:関西研修センター(KKC)/福岡会場:リファレンス駅東ビル貸会議室) | 東京都 | 日本
一般財団法人日本語教育振興協会は標記研修を開催いたします。 昨年度に引き続き、より質の高い研修成果を求めて、研修の核となる2日間の集合研修を東京会場、大阪会場、福岡会場で全て対面にて実施することにいたしました。特に、東京会場は国立オリンピック記念青少年総合センターに宿泊して研修を行うので、研修に参加した仲間や講師との絆がより一層深まることを期待しております。もちろん、どちらの会場での研修も日本全国からご参加いただけます。 加えて、オンデマンドによる事前学習を多く取り入れるなど、集合研修での成果をより高めるための工夫がされております。さらに、各参加者が自校の教育の質向上のための取り組みを発表する機会を作り、より質の高いフィードバックが得られるように集合研修後のフォローアップも強化するなど、より密度の濃い研修プログラムとなっております。 受講希望者におかれましては、7月28日(月)までに,所定の応募方法にて,ご応募くださるようお 願いいたします。 また、当協会の主任教員研修は告示校を対象としているため、たとえ常勤3年以上の経歴を有していても認定校・告示校の教員(認定日本語教育機関の審査申請済みの教育機関(新規開校含む)に所属する主任教員を含む)でない限り研修の対象とはなりません。 《令和7年度 主任教員研修の特徴》 ︎「日本語教育の適正かつ確実な実施を図るための日本語教育機関の認定等に関する法律」の成立により、ますます注目が集まる「日本語教育の参照枠」や「日本語教師の人材育成」について理解を深める事ができる ︎ 現場の“今”を意識した研修プログラムにより、過去の研修受講者が再度受講しても満足できる研修である ︎ グループワークでは経験別や所属学校の属性別のグループを構成することにより、多様な受講者の満足度を保証する 《令和7年度 主任教員研修のねらい》 ◆「日本語教育の参照枠」に基づく学習成果の評価と手法を理解し、実践に活かす力を養う ◆ 人材育成の目的や考え方を知り、自校が求める教員像に近づけるための育成方法を考え実践する ◆ 今の悩みを共有できる仲間や、相談できる先輩とのネットワークを獲得する 《研修について》 ◆研修期間  2025年8月29日(金)~2026年1月8日(木)まで       ※7月29日~8月25日まで事前課題への取り組みがあります       ※研修の詳細な日程については当協会のホームページよりご確認ください ◆開催場所 オンライン(Zoom)+下記いずれかの会場       【東京会場】国立オリンピック記念青少年総合センター       【大阪会場】関西研修センター(KKC)       【福岡会場】リファレンス駅東ビル貸会議室 ◆定員 108名(会場定員:東京会場54名/大阪会場36名/福岡会場18名) ◆参加資格 以下の(1)〜(3)のいずれかの条件を満たす方  (1) 認定校・告示校の主任教員  (2) 認定校・告示校で 3 年以上の常勤教員経験を有する主任教員予定者  (3) 認定申請済機関の主任教員 ◆参加要件 ・研修の全日程に参加できる方 ※参加決定後の会場変更は不可 ・オンライン集合研修において、静かで研修に集中できる環境から参加できる方 ・インターネット環境が整っており、PC で研修に参加できる方  ※スマホやタブレットからの参加は不可 ・自校にて実際に課題改善を行い、その取り組みを発表し、研修レポートとして提出できる方 ◆受講料 30,000円(消費税込)      ※東京会場参加者については、別途宿泊費及び食費等(20,000 円程度)が発生します。       詳細な費用については、参加決定者に対して別途お知らせいたします。      ※大阪・福岡会場参加者については、交流会参加費が発生します。       詳細な費用については、参加決定者に別途お知らせいたします。 ◆詳細・申込方法 https://www.nisshinkyo.org/news/detail.php?id=3370&f=news          ★上記サイトに掲載されている開催案内をよくお読みいただきますようお願いいたします ◆応募締切 2025年7月28日(月) 〔問い合わせ先〕 一般財団法人日本語教育振興協会 主任教員研修担当 Eメール:shuninken@gmail.com TEL:03-6380-6557

注目の記事

  1. 【お知らせ】「やさしい日本語」で外国人の労災防止を―「にほんごぷらっと」でシンポジウムの動画を公開 …
  2. 日本語議連が日本語教育の課題解決に向け22回総会を開く 昨年度の登録日本語教員の試験の合格率は62%…
  3. 「『素顔の国際結婚』の今」を読んで 国籍法と国際家族のあり方を考える まず、家族へのひときわ強…

Facebook

ページ上部へ戻る
多言語 Translate