はじめに
九州のブロック紙である西日本新聞社の長期連載企画「新 移民時代」が、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞し、明石書店から「新 移民時代―外国人労働者と共に生きる社会へ」と題した単行本として出版された。同社の〝移民企画〟が社会的に高い評価を受け、出版物として世に出たことに祝意と敬意を表したい。「新 移民時代」は、大手メディアで初めて「移民とは何か」「共生社会とは何か」を正面から問いかけた連載企画である。人口減少時代に避けては通れぬ重い課題を掘り起こし、貴重な提言や日本が進むべき道筋を示した意味は大きい。
タブー視されてきた「移民」
「移民」という言葉をめぐっては、感情論も含め様々な議論が交錯する。テロや暴動などのニュースが移民と絡めて報じられることが多々あり、とかく負のイメージが付きまとう。欧州などでは大きな政治課題であり、米国ではトランプ政権が移民排斥の方針を打ち出し、国民の間に亀裂を生じさせている。
日本でも、日本なりの課題を抱える。知人がかつて「移民という言葉がイデオロギー化してしまった」と言ったのを憶えている。移民受け入れの賛否をめぐる議論が安保論議のような対立を呼び、思考停止に陥っているというのだ。
自民党外国人材交流推進議員連盟が2008年6月に「日本型移民政策の提言」をまとめた。「50年で移民を1000万人受け入れる」内容だ。それが報道されると、「移民」に異を唱えるグループが抗議活動を展開し、議連会長の中川秀直元幹事長の事務所には抗議の電話やメールが殺到した。
私は元東京入管局長で移民受け入れの旗振り役だった坂中英徳氏らとともに議連の活動に協力し、「提言」の原案作成に関わった。議連の議員の中にも「移民」への抵抗感が少なからずあったのは事実だ。それでも提言は自民党の政策に格上げされ、福田康夫首相に提出された。直後に福田政権が退陣したため、「移民問題」も雲散霧消してしまったが、「移民」が本格的に政治の場で議論された最初のケースだった。
私と坂中氏はその後、「日本型移民政策」をテーマにシンポジウムを東京都内で開いた。ここでも「移民1000万人」が反対派のターゲットになった。20人から30人の反対派が会場に押し掛け、妨害活動を行った。
2か月後に経団連が「人口減少時代の社会経済のあり方」という文書を公表した際にも反対派が経団連会館に押し掛けた。政府に「移民受け入れの検討」を求めた文書だったためだ。大手町のオフィス街は騒然とした雰囲気に包まれた。移民の研究者も嫌がらせを受けたと聞いた。そうした空気を忖度してか、ジャーナリズムは「移民」には腰が引けた報道に終始した。「移民」という言葉がマスコミ界ではある種のタブーだった。
そうした経緯を知る者から見ると、「移民」を堂々とタイトルに掲げた西日本新聞社の連載はまばゆく映った。昨年11月、取材のため上京した取材班の記者から「移民の長期連載を12月からスタートさせる」「そのための10人近い取材班がすでに取材を進めている」などと新聞社を挙げて取り組むことを聞いた。
記者は「九州は東京のようにたくさん人がいるわけでないので、〝出稼ぎ留学生〟が街中でよく目につく。外国人留学生が街の風景の中に溶け込んでいる」とも語った。さらに、記者は九州から「逃亡」して北関東の都市で働くネパール人の元留学生の追跡取材をするといい、「彼らは生活のために逮捕覚悟で日本に働きに来ている」と述べたのが印象的だった。
「出稼ぎ留学生」という問題提起
「新 移民時代」の連載では、留学生をめぐる様々な問題をはじめ、外国人技能実習制度の矛盾、共生社会や国際交流の在り方などを実態報告から提言へと包括的に報じた。本書の「おわりに」で取材に関わった40人近い記者の名前を記しているが、当初、10人前後だった取材班が4倍に膨れ上がり、まさに「総力戦」を展開したわけだ。
特筆すべきは、「出稼ぎ留学生」の実態に迫ったルポだ。アルバイトに向かう留学生がたむろする福岡市内の「風景」を切り取って見せ、ネパール、ベトナムでの「留学あっせん」の実態、さらには教育とは言い難い日本語学校の状況をえぐり出した。もちろん一部の日本語学校に関する話だが、人身売買だと批判されてもおかしくない現実があった。
また、留学生問題では、「週28時間まで」とされるアルバイトの扱いを大きな課題だとして扱った。必ずしも豊かでないアジアの学生にとって、アルバイトによる「稼ぎ」は大きな魅力だ。一方、労働力不足に悩むコンビニや居酒屋、搬送業者などにとって、留学生は欠かせぬ労働力となっている。それは九州だけでなく東京など首都圏でも同じだ。
「違法労働はけしからん」と切って捨てるのは簡単だが、留学生らを批判するだけで済む問題ではない。留学生のアルバイトを厳格に規制すれば、困るのは留学生だけでない。経営が立ち行かなくなる日本語学校や中小企業も少なくないというのだ。問題は留学生受け入れの仕組みにあり、責任は仕組みを作った政府にもあることを指摘しておきたい。
1988年に起きた「上海事件」。中国・上海の日本総領事館を数万人のデモ隊が取り巻いた騒動だ。中曽根政権が「留学生10万人計画」を打ち出したのを受けて、雨後の竹の子のように日本語学校が林立し、ビルの一室を借りただけの「名ばかりの日本語学校」が就学ビザで労働者を受け入れた。
この混乱に待ったをかけようと就学ビザの発給を止めたのが法務省入国管理局だった。このため「カネを払ったのだからビザを出せ」と中国人の若者が日本の総領事館に抗議に押し掛けたのだ。日中間の外交問題になった。「最近の急増する日本語学校の状況は、当時の様子と似てきた。心配だ」と漏らす日本語学校関係者もいる。
「新 移民時代」がスタートする1か月ほど前、超党派の日本語教育推進議員連盟(河村建夫会長)が発足した。日本語教育と言っても、在留外国人の子供教育から日本語学校、大学、大学院の留学生の教育まで実に幅が広い。様々な形の教育現場がある。しかも、政府内には日本語教育全般に責任を持つ部署がない。そのため日本語議連は日本語教育推進基本法(仮称)の制定を目指して議論を進めている。議論の柱の一つが日本語学校の問題だ。
「出稼ぎ留学生」が増える中で、日本語教育の質をどのように担保するのか。働くことを目的とした留学を容認していいのか。人出不足にあえぐ企業を支える人材のどのように確保すればいいのか。簡単な方程式で答えを引き出すことはできない。政治家の知恵と判断力が問われることになる。
都市政策としての外国人受け入れ
「新 移民時代」では、有識者のインタビューが随時掲載された。その中には示唆に富む話が数多くあった。
劇作家の平田オリザ氏は「(政府が)移民政策のまっすぐな議論を避けた結果、各地で受け入れ体制が整わず、異文化理解も進まないままトラブルが生じてきた」「僕は移民を『適当にゆっくり入れていこう』という立場。そのために政府や自治体は『どんな人材をどれくらい求めるのか』というビジョンを明確に打ち出さなくてはいけない。日本は海に囲まれ、日本語という高い障壁もあり、移民が急に大量に入ってくることはない。受け入れ計画はたてやすい」。〝穏やかに〟移民政策を進めよ、というわけだ。
「こういう問題(外国人材の受け入れ)提起をすると『移民政策賛成派だ』『左翼だ』と批判されるが、犠牲になっているのは、人出不足に苦しむ事業者たちであり、夢を見て日本にやって来たのにブローカーにピンハネされ、酷使され、日本嫌いになって帰っていく人たちだ。政治家はそういう現実にもっと向きあわなければならない」。こう語るのは自民党元幹事長の石破茂氏だ。日本語議連に参加する議員はともかく、このような見識を持つ政治家はまだまだ少ない。
中長期にわたり日本で暮らす在留外国人は現在約240万人。47都道府県の人口と比較すると、14位の宮城県の233万人を上回る。外国人住民の比率は地域によって大きく異なり、群馬県大泉町や新宿区は10%を超える。その対応も自治体によって様々だ。
日系ブラジル人が多く住む浜松市などは外国人集住都市会議を発足させ、政府に様々な要求を突き付けている。一方、欧州では、「多文化主義」が否定され、「インターカルチュラルシティ」という新たな政策が実施されている。移民を多く受け入れている都市が「移民を資産」として前向きにとらえ、その多様な力を活用しながら、共通の課題解決にも連携、協力しようというという考えだ。昨年10月、インターカルチュラルシティにアジアで初めて浜松市が参加を決めた。
本書の「はじめに」で取材班キャップの坂本信博記者は「九州はアジアから新しい風を受け入れ、地域を活性化させる力を日本中に波及させてきた」と書いている。だとすると、「新 移民時代」は九州から幕を開け、全国に広がるかも知れない。(了)